島根県の益田に不思議な居酒屋があります。駅から10分ほど歩く里山にあり、近隣には飲食店はありません。昔の民家のような木造の建物に、お昼すぎから暖簾がたなびいています。
漁師町、益田の人口は現在4万人ほど。かつては益田競馬場が存在したほどの山陰有数の街でした。旧街道沿いには料理屋やスナックといった往時の賑わいを感じさせる歓楽街がかろうじて残っています。
そんな街にあって、駅から徒歩10分という立地が、どれほどのものかはご想像がつくかと思います。
益田へは、山陽地方からは新山口から益田を結ぶJR山口線が結んでいます。また、島根県の県庁所在地・松江からは山陰本線でのアクセスになります。高速化改良が施され、新型の高速特急「スーパーおき」が本数は控えめながら繋いでいて、鉄道での訪問は便利です。
それでも、やはり何もかもが便利になった今としては、行きにくいと感じます。でも、だからこそ、益田には酒と肴を求めて訪れたいのです。
山陰本線を特急スーパーおきに乗車すると、日本海と山の際を縫うように走り、絶景の車窓が楽しめます。
昭和の雰囲気をそのまま残す、ひと昔の日本の旅が楽しめ、東海道・山陽側にはないゆったりとした「汽車旅」の風情です。
駅前広場は再開発も進み、駅舎こそ古いものの、ホテルや観光案内所、タクシーにバス乗り場と観光の拠点らしい姿があります。旧街道の歓楽街も歩いてすぐ。お昼から飲める居酒屋を兼ねた寿司割烹もあり、お店によっては地元の人の姿も多いです。それでも、だいぶ寂しいことにはかわりませんが。
駅からえっちらおっちら、木々の間の坂をのぼり、田畑に囲まれた小さな高台へ。ここに田吾作があります。広い空、木造の建物に朱色の暖簾。実に不思議な光景です。なお、タクシーならば「田吾作へ」と言えば、ワンメーターで連れてきてもらえます。
入ると、そこには下駄箱。てっきりカウンターが広がる店内に入ると思うじゃないですか。これが、また驚きのポイントです。お店の人が居ないのですが、恐る恐る店内へ。階段を降る一本道です。
傾斜の土地に建つ「田吾作」。入り口は実は二階で、階段を降りていくと割烹型の厨房とカウンターが目の前に広がります。
店構えの想像をこえる広さと、ゆったりとしたつくりの板間の空間に、ここでもまた驚きます。カウンターの先、冷蔵庫の向こう側にも客間があり、からくり屋敷のような雰囲気すらあります。
ビールはアサヒ、キリンの二種類。樽生はアサヒスーパードライエクストラコールドと、意外と新しい。瓶ではキリンのクラシックラガーを置いています。主役の日本酒は益田や浜田といった近隣の酒蔵が揃います。
広々とした厨房に、農家のお母さんのような、素朴なベテランお姉さん。広いカウンターでまずはほっと一息。一杯目はやはりビールで、ここは昔懐かしい昭和の味・クラシックラガーをいただくことにします
では乾杯!
品書きは一応ありますが、お隣の常連さんやお店の方との会話の中から、気になるものを選びましょう。地方の酒場の醍醐味は会話から。すべて近隣の港で水揚げされたものだそうで、時期や漁次第で内容がかわりますが、サザエや活イカは定番です。
飲んでいくならば、これをおつまみにしてね、と出てきた小鉢は地元の名物であるなまこのキモ「このわた」に、卯の花。なんと素敵な肴でしょう。
なまこもいただきます。お昼からのどぐろは贅沢なので、酒の肴で揃えていきましょう。瓶ビールだけではものたりないでしょう?とお酒の話になると…
田吾作の名がはいる純米吟醸がやってきました。「美味しいよー」と、素敵な表情で言われてしまったら、それだけで嬉しくなっちゃいます。
益田の酒蔵・花山の扶桑鶴。水は山から流れて海に行きます。その過程の中で、お酒になる水もあれば、魚を育てる海にもなります。だから、同じ水系の酒と魚介類は直線的に違和感のない組み合わせです。
口の広い猪口にも田吾作の文字。きゅっと飲めば「あぁ、いいね」としみじみ思うものです。
焼き魚は七輪でじっくりと。同じ炭火でサザエはつぼ焼きに。漂う磯の香りに、それだけで扶桑鶴が進む中、ついに登場。朝どれで新鮮そのもの。握りこぶしより大きく、肉厚です。
噛むほどに濃厚な磯の旨味と優しい苦味。そして、喉を経由し鼻に抜ける甘みがたまりません。その余韻に日本酒をきゅっと飲めば、行きにくい街に来たからこその喜びに浸れます。
かわはぎ、おこぜ、ひらめなどの活魚や、アワビや海老など、何があるかはお楽しみ。ただ、地ものを美味しく、そして居酒屋の価格で楽しみたければ、間違いのない一軒です。女将さんや常連さんも優しさも心に響きます。
居酒屋好きならば一度は訪れるべき名店へ、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょう。
ごちそうさま。
(取材・文・撮影/塩見 なゆ)
田吾作
0856‐22‐3022
島根県益田市赤城町10-3
12:00~24:00(不定休)
予算3,300円