とんかつで飲むのは”粋”です。大衆酒場の串かつではなく、ちょっと気取った感じで飲むのがたまらない。
1930年(昭和5年)創業の「井泉本店」は、まさに粋なとんかつ飲みを楽しむのには最高のお店です。「お箸できれるやわらかいとんかつ」のキャッチフレーズが有名で、まさにその通り、箸を軽く当てるだけですすっと切れていきます。一口サイズに箸で切りながらつまめる、これがお酒と合わせるときには何より大事で、かぶりつかずにちびちびいけるのがいい。
旧町名で下谷同朋町、昭和初期のこの界隈の写真は、「井泉」の周辺もすべて黒兵衛のあるお店で、芸者さんがしとしと歩くような街が記録されていますが、時代が変わり周囲は飲み屋街になり、「井泉本店」だけが当時の面影を残しています。
入ってすぐにカウンターは職人技を目の前でみられるライブ席。奥には中庭の見える座敷が広がり、そちらは昭和30年代まで芸者さんが踊っていたという空間が今も現役です。
芸者さんが口を汚さずに食べられるようにと、パンでカツをサンドした食べ物を日本で最初に開発し、現在の「カツサンド」として全国に広まった”発祥の店”という話はあまりにも有名ですね。
お昼から夜まで通しまで営業しているので、少し時間をずらして定食ではなく、ご飯の変わりに軽くビールをくいっと飲みながら、昭和初期の粋というものを感じてみるのはいかがでしょう。
食事メニューの裏面には一品としておつまみが並びます。風格ある老舗でありながら庶民的な価格設定で、誰もが手軽に楽しめるのがいいですね。
とんかつの他に、エビフライやハンバーグ、お酒飲みを狙い撃ちの塩辛などもあります。
お酒は生ビールがキリン一番搾り(IS・650円)で、瓶がキリンラガー(CL・600円)、そして日本酒は西宮の辰馬本家酒造の白鹿のみ。焼酎やワインなどを増やすことなく、ずっとずっと変わらない定番のみを置いています。
昭和40年代の味を今に伝える変わらぬ味のキリンクラシックラガーが似合うお店です。それでは乾杯!
一品でとくにおすすめしたいのが、このオムレツ(カニ入り)。黄金色と自家製ケチャップの赤色のコントラストが美しい。口の中で溶けていく綿のような卵にカニがたっぷり、ケチャップの旨味がアクセントになって、優しい味わいながら、記憶に残る逸品です。
とんかつが揚がるまで、カニと胡瓜のサラダ(750円)をちょちょいと口に運びながら、ラガーの瓶を傾ける。楽しみの時間を盛り上げてくれる素敵なおつまみです。ふんわりと甘酸っぱい味が、これもまた心に残ります。
白木のカウンターから眺める職人技。
専用の作業台にセットされたパン粉や卵黄に手際よく、それでいて丁寧な手つきで工程が進みます。わずかに静ませてから油へゆっくりと浸けていきます。
揚がったものは、待ったなしでまな板に載せられ、目にも留まらぬ早技で包丁を入れ、出来上がり。まな板は、新品のときは5センチほどありますが、2年で1センチまで薄くなるのだそう。
このまな板もすでに、包丁の当たるところに凹みができ始めています。
パン粉も豚肉も油も、すべてが伝統の「井泉」オリジナル。きつね色に揚がったとんかつからは、わずかな油の香りと濃厚な豚肉の香り。油の状態が大変良く、これだけ揚げているにもかかわらず、店内も空気が澄んでいます。
お箸ですっときれるとんかつ。そのまま食べると、ちょうどお酒の味と協調がとれるように思えます。キリンクラシックラガーの苦味に豚の甘みのコントラストが最高です。途中から白鹿の冷酒にして、ゆっくりとしたペースで食べても良いかもしれません。
熱々だけでなく、冷めても美味しい、冷めても柔らかい井泉本店のとんかつは、お酒を飲むペースに合わせやすいです。
最後に特製の豚汁をもらってシメてみてはいかがでしょう。注文の毎に葱をささっと鍋に入れて、軽く歯ごたえが残る状態でお椀に入れて供されます。これもまた、立派な液体オツマミでビールが進みます。
お座敷洋食「井泉本店」は、その名のごとく食堂としてだけでなく、飲み処としても昔から親しまれてきたお店です。4代目が守る東京の伝統を味わってみてはいかがでしょう。
ごちそうさま。
(取材・文・撮影/塩見 なゆ 取材協力/キリンビールマーケティング株式会社)
井泉 本店
03-3834-2901
東京都文京区湯島3-40-3
11:30~20:30(水定休)
予算2,500円